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Ⅰ.共同体と疎外

 

~児童文学からみた、共同体と疎外をめぐる問題と

その解決策~

2014年9月23日講義 エイリアンと共同体
小谷 真理先生

 自分が共同体と疎外と聞いて初めに思い浮かべた作品は、宮沢賢治作の児童文学「よだかの星」である。よだかはいつもほかの鳥たちに馬鹿にされ、避けられ、ある日おなじ「たか」の名を持つことに腹を立てた本物の鷹に「市蔵」と名前を変えるように迫られ、絶望し、居場所を求めて空の星たちのもとに逃げ出そうとする。しかしどの星たちにも相手にされなかったよだかは、結局自らの力で空に輝く星になった。

 

 どうしてよだかは、鳥たちに疎外されなくてはならなかったのだろうか。めじろの子どもが巣から落ちてしまったときは、助けて巣に連れて行ってやるような、優しい鳥だというのに。

 

 それは、よだかの醜い外見にあった。「顔は、ところどころ、味噌をつけたようにまだらで、くちばしは、ひらたくて、耳までさけています。足は、まるでよぼよぼで、一間とも歩けません。ほかの鳥は、もう、よだかの顔を見ただけでも、いやになってしまうという工合でした。(「よだかの星」 本文より引用)」

 

 醜い外見によって疎外されてしまう主人公、ここで自分はもう一つある童話を思い出した。児童文学の中でも有名な「みにくいアヒルの子」である。このみにくいアヒルの子もとい白鳥の子も、よだかと同様にその外見の醜さゆえにほかのアヒルたちから疎外されていた。よだかと白鳥の子に共通しているのは、醜い外見という「共同体とは違う要素」を持っていることだ。では、共同体が自分と違う存在を排除したがるのはどうしてだろう。それを解決するにはどうしたら良いのだろう。

 

 「共同体」というだけに、集団内には共通ルールのようなものがある。そこから逸脱したものはその集団にとって秩序を乱すものであり、共同体の崩壊にまでつながる危険性がある。だから集団内の者たちは、自分たちとは違う外見を持つ、よだかや白鳥の子を、共同体を乱すイレギュラーな存在として恐怖し、排除しようとしたのではないだろうか。

 

だが、みなと違うから排除する、などというのは、非常に一方的な理屈である。「自分たちと違うこと」は「疎外」への理由にはならないのだ。これを解決するにはやはり、双方がこのことを理解し、互いに互いを認め合うことしなくてはならない。そこでまず必要なのは、疎外されてしまった側の、自分への理解だ。どうして共同体の中に入れないのかを自らが理解してようやく、相手に理解されることのスタートラインに立つことができるのではないだろうか。また共同体側も、秩序を重んじいつまでもてルールに縛られていてはならない。他の者と認め合うことで生まれる新たな可能性に気付く必要があるのだ。

Sayaka Hirano

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