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Ⅱ.共同体と疎外

~人種と性の問題から考える~

2014/9/23 小谷先生

 『共同体と疎外』の関係性とはなにか。共同体の中の異質な存在に注目することで、その‘普通’とされている共同体の本質が見えてくる。‘エイリアン=異質な存在’が疎外される、という事実は逆にそれらを疎外している共同体を構成する要素とはなにかを考察するきっかけとなるのだ。

 

 このテーマを考えたとき、私は二つの映画が思い浮かべた。ひとつは1960年代のアメリカを舞台にしたミュージカル映画「ヘアスプレー」、もうひとつは3人の世代の違う同性愛者(ドラッグクイーン)達が旅をする「プリシラ」という映画だ。どちらもポップで明るい映画だが、『共同体と疎外』というテーマを通してみると、全く違う印象が浮かび上がってくる。

 このテーマの下で、映画「ヘアスプレー」について考察したい。まず初めに簡単なあらすじを述べたい。舞台は1960年代初頭のアメリカ・ボルティモアー、高校生のトレーシーは毎日地元のローカルテレビが放映しているティーンエイジャー向けのロックンロールの番組に夢中だった。ある日トレーシーはその番組に出演する夢を叶えるためオーディションを受けるが、番組のプロデューサーに太った体型を否定され不合格となってしまう。それでも諦めないトレーシーは、黒人の生徒たちとの交流などを通してダンスの楽しさを覚えた。そしてダンスの才能が認められ遂に番組に出演し、そのチャーミングな人柄で人気を獲得する。しかしその番組には人種差別規定があり、白人と黒人は徹底的に分けられていたのだったが、そのことに対し納得のいかないトレーシーは黒人の仲間たちと共に抗議活動を開始する-。

 

 この映画にはふたつの疎外(差別)される対象が登場している。ひとつは「黒人」という人種による疎外。もうひとつは「肥満」という身体的な要素による疎外。

 まず「黒人」という人種による差別だが、1960年代初めは人種間の平等の実現への移行の時期であり、その時代の流れの中でも、舞台であるボルティモアーは人種差別が根強く残る町として描かれている。地元のテレビ番組に登場するのは主に白人の若者で、月に一回黒人だけの回がある。学校でも白人と黒人は一緒に勉強することも、一緒に踊ることすら許されていない。ここに「人種」というバイアスのかかった[白人の]共同体からの、[黒人に対する]疎外が示されている。このような疎外によって、逆に黒人だけで構成されるコミュニティが出来上がり、そこに白人が所属することは黒人が白人社会に所属することと同じくらい難しい。あるひとつの疎外の存在は新たな対抗する疎外を生み出すのだ。

 

 人種の問題とも深く関係している「見た目」の問題は、この映画の中で現れるもうひとつの疎外の大きな要因である。映画の中で、主人公を「太っている」という外見上の特徴だけで排除しようとするテレビ番組のプロデューサーや出演者の女の子たちが登場する。身体的な特徴をかざして特定の人物を集団の中から差別する、「いじめ」とも言い換えることのできる疎外であろう。しかしここで面白いのは、この疎外に対するふたつの対照的な反応が示されていることだ。主人公は、疎外されている対象にも関わらず自分の見た目にコンプレックスを全く感じていない。これに対して、主人公と同じく太っている母親は、

自分の体型を極端にコンプレックスに感じて外に出ようとしない。「人と違うこと」が許されないと感じているのだ。二人は同じ疎外されうる特徴を持っているはずなのに、この感じ取り方の違いはどうしてなのか。

 

その理由は、この映画を通して描かれている‘世代間のギャップ’という隠れたテーマにあると私は考える。先ほどの「人種」という疎外の例に対してもそうだが、この映画には保守的な‘大人’世代とリベラルな‘若者’世代がはっきりと描かれている。「人と違うこと」は、大人世代では「恥じるべきこと」とされていたが、新しい若者世代ではそれはむしろ「誇るべきもの」という考えが表されている。自分の弱みを強みに変えることこそが、疎外からの脱出、もしくは疎外する別々の共同体の垣根を壊すきっかけになる。「太っている」という疎外される要素を持ったトレーシーは、それを自分の強み・個性に変えることができたからこそ、もうひとつの疎外という環境に置かれている黒人の仲間を率いて進むことができたのだ。

 

 次に、もうひとつの映画「プリシラ」について考察したい。物語のあらすじはこうだ。“シドニーに住むドラァグ・クイーンのミッチは、アリススプリングスのカジノでのパフォーマンスの仕事のため、2人の友人―性転換者のバーナデットと、若くて騒々しいフェリシアと共に1台のバス「プリシラ号」をチャーターし、アリススプリングまで砂漠の中を旅に出た(Wikipediaより引用)“という、いわゆるロードムービーである。

 

 一般社会のマジョリティーである異性愛者の中にあって同性愛者はマイノリティーであり、常に疎外されている立場である。彼ら(‘彼女ら’が適切なのかもしれないが混乱を避けるため‘彼ら’と表記する)が働くショーを見に来る客達も大半は好奇の目で、軽蔑を含んだ態度である。しかし同性愛者への偏見が存在するとはいっても、都会では同性愛者だけのコミュニティが出来上がっており、彼らは一般社会と距離を置きつつコミュニティの中で暮らしていた。しかし彼らは旅をする道中で、今まで過ごしていた環境とは全く異なるコミュニティにたびたび遭遇することになる。アリススプリングに向かう途上滞在した都市では、派手な格好のままバーへと出かけ好奇な眼差しで囲まれる。そこで彼らは、いちゃもんを付けた女性と飲み比べをしたり、パフォーマンスをしたりして周りの人間を巻き込んで溶け込んでいった。ところが翌朝、止めてあった彼らのバスにはエイズと同性愛者を短絡的に結びつけた落書きがされていた。このように彼らは元居たコミュニティの人間とは違った文化の人間たちと、交流すると共に傷つけられもした。

 

 この映画で特徴的なのは、先ほど考察した「ヘアスプレー」と同様、2つの疎外が登場するところだ。物語では、「同性愛者」という疎外の問題が軸として描かれている一方で、「先住民」というオーストラリア特有の歴史よる疎外が登場する。ミッチ達一行は旅の途上でアボリジニ達と出会う。アボリジニはオーストラリアの先住民であるが、移入してきた白人によって社会から迫害、疎外された人々である。同性愛者と先住民たちという、互いに社会から疎外された存在の両者の心の触れ合いが、映画では互いの文化(ダンスや歌)を共有しあう場面で表されている。

 

 また、この物語で重要なのは「許し」の存在だ。3人とも同じ同性愛者という大きな括りにまとめられてしまうが、同性愛者同士の中にも複雑な違いがあり、それは旅の中で軋轢となって現れた。その違いはそれぞれの性に対する考え方でもあるし、世代による社会との向き合い方の違いでもある。元いた都会のコミュニティではそれぞれが平行線のまま、半ば意図的に無視してきたこれらの考え方の違いは、共に旅をする上で向き合わざるを得ず、衝突を繰り返しながら互いを許すことを学んだ。もうひとつの大事な「許し」は、受け入れてくれる人間の存在だ。彼らは同性愛者として社会の偏見に晒され、周囲とは違うことを自己認識していく中で、無意識的に後ろめたい気持ちを持たざるを得なかった。しかし車を修理してくれたボブやミッチの息子は、ありのままの彼らを受け入れてくれた。これは彼らにとって初めての経験であったし、驚きでもあった。「同性愛者」という引け目を持った自分を受け入れてくれる人間の存在が、彼らに自信と自分自身の存在への誇りを思い出させたのだ。

 

 「ヘアスプレー」と「プリシラ」、両方の映画に共通して表されているのは、共同体から疎外された人間にとって重要なのは、その疎外を理解し受け入れてくれる人間の存在と、そうした理解によって取り戻すことのできる自分自身への自信と誇り、ということだ。このふたつの要素によって、彼らは疎外を無くすだけでなく、時として疎外を作り出している共同体の構造そのものを改革することさえあるのだ。『共同体と疎外』について、私は実際に存在している問題に注目してふたつの映画を考察した。私が挙げた「白人と有色人」、「異性愛者と同性愛者」のような対立する疎外の問題は、いかなる共同体にも必ず存在し、それぞれの問題に置き換えることができるだろう。これらの問題をいかに解決するかは共同体、疎外両方の側から考える視点が必要だと私は考える。

Risako Hayakawa

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